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礼拝学 第八回

この回からマスターノート的ではなく議事録的になる。個人情報なども含まれるので情報は極めて限定的になる。正直、資料としては使えないかも。

前回は第7回

礼拝学 第八回

今回の箇所

ルカ 10:25-37 (善いサマリア人の例え)

簡単なまとめ

  • 神への愛と隣人への愛は別? →それは同時に成立する、片方だけではありえない
  • 信仰の有無はこの箇所では問われないのか? →カッコつけの信仰を非難されるイエス・キリスト
    信じます、信仰のないわたしをお助けください 砕かれた人を受け入れる主、出来る・正しいという思い込みを砕かれるキリスト
  • 聖書の引用は内容の拡散のリスクを含む。テキストの固有性を活かすのも大事。
    ただ、聖書が最も聖書を良く注解するとも言える
  • この箇所に出てくる隣人愛は子供への愛と同じか? →隣人愛は血縁等を超越する
  • 隣人とは誰か? ではなく、隣人の境界線を設けて非隣人を創りだそうとすることが問題
  • 隣人になる、とは憐れむこと。憐れむは原語で スプランクニゾマイ (εσπλαγχνισθη) 。スプランク、は内蔵を意味する。日本語でも断腸の思いといった言葉があるように、非常に深い同情・共感を意味する
  • 隣人になるのは倫理によるのではない。イエス・キリストによって解放されることによって出来る
  • この箇所で介抱された人は次に同様のことが出来る。開放された者だけが出来る
  • 知識主義的である事の危険に注意
  • 丁寧すぎる文体も如何か。相手に合わせて文体を変え、活きた言葉を

先生のまとめ

  • 全体的にレベルが高い
  • 語り手の立場差もある。信仰者なら信仰的に語る。そうでなければ倫理的である
  • 活けるイエス・キリストを示すのが説教。イエス・キリストから受けた自分の課題として語る

次回

次回は ルカ 10:38-42 マリアとマルタ より作成すること。原則として 14 日 (日) 18:00 を提出期限とする。

posted by: しゅんしゅん | 学び | 20:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

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