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CS教育論 2 -復活の主に従う宣教2-

CS 教師としての大成を目指すしゅんしゅんの道は長く険しい。それでもあえての前進。4/18のテーマは「宣教献金の恵み」である。

「大宣教命令」と呼ばれる事の多い箇所をもう一度引用しておく。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあながたたと主にいます。」マタイ 28:18-20より
前回 (CS教育論 1 -復活の主に従う宣教1-) はこの達成のために祈りを大切な物として挙げた。今回は献金に焦点を当てる。

献金に関しては以下の聖書箇所が参考として今回のカリキュラムには挙げられている。マラ 3:102コリ 8,9使徒 20:35ピリ 4:10-19ヘブ 11:6である。


まず、献金に関して二種類のそれを考えたい。10分の1献金と宣教献金である。

十分の一献金とは、マラ 3:8-10に出てくる捧げものである。ここに引用してみよう。
人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかもあなたがたは言う。『どのようにして、私達はあなたのものを盗んだでしょうか。』それは十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。 ―万軍の主は仰せられる― わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。マラ 3:8-10より
また、十分の一に関しては創世 14:20 28:22にも記述がある。これらの箇所を根拠とし、十分の一献金は主のご命令であり、忠実にささげて信仰と従順を示すものだとされる。ちなみに、一般に『十一献金 (じゅういちけんきん) 』と略される事が多い。

宣教献金とは十分の一献金とは別途捧げる物としてある、教会外の宣教活動の為に捧げられる献金である。私の所属教会では "信仰約束献金" と呼ばれる他、宣教関係の会計は一般会計と別に設けられ、報告が為されている。信仰約束献金は年度頭に祈った上で月に捧げる額を決定し、毎月捧げる物とされる。この献金は宣教師の命綱でもあり、これが無ければ宣教師は食べて行くにも困る事になるケースがほとんどである。


2コリ 8より献金について。以下の事が記述されている。マケドニアの諸教会は厳しい迫害と貧窮の中にあっても満ち溢れる喜びによって力以上に捧げた。それは自ら進んで宣教の業に参加するという交わりに加わりたいという願いからであった。その背景にはまず、自分自身をささげる献身があった。


以下は私見、つまりカリキュラムに書いていない事。

まず、異端的な発言かもしれないが、このカリキュラムを何も考えずに適用する事に危機感を感じずにはいられない。「献金をする事は素晴らしい事」は Yes と思う。が、「献金をしない事は悪い事」に関しては明確に No と思う。このカリキュラムを何も考えずに用いる際にその様な律法主義的誘惑に陥らないようにする必要がある。

また、従順の無い捧げものに対して主は厳しい態度を取られている。主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさるサム上 15:22より。思うに、その献金が自らを示す為のそれであれば主は決して受け取られず、その場で溝に捨てるように思う。

しかし、そうであってもやはり献金は良い物である。その業はただの業ではなく主の赦しの中で与えられる業である事が2コリ8章の冒頭に記されている。加えて、受けるよりも与える方が幸いである使徒 20:35に記されている。献金は与えられた恵みの中から捧げるという形で他者を助ける意味合いがある。今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。2コリ 8:14,15にある。これはシステムとしての税金に近い点がある。税金は収入が多い者から多くを取り、収入が少ない者を助ける為にあるシステム…収入の再分配…である、と高校時代の教科書には載っていた。

まず、神様に与えられた物をお金以外でもどう捧げて行くのかを考えて行くべきなのかもしれない。例えば、私には二本の腕がある。あまりに多くに荷物を持っている人がいた時に代わりに半分を持つという事を奉仕とした時、それは立派な捧げものであると思う。献金はその形式をお金としただけではないだろうか。ただ、お金は遠距離に手を伸ばす時に便利な形式であるのも事実である (宣教地に直接行けなくても、宣教師を手助け出来るのは献金という形が一番容易と思う) 。

posted by: しゅんしゅん | クリスチャン的な | 00:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

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